石川テレビニュース
ISHIKAWA TV NEWS
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東日本大震災の被災地から能登半島地震の被災地へのエール
この一年、能登を取材していると「生活の見通しがたたない」「本当にふるさとは再建できるのか」そういった声を多く聞きました。では、これまでの被災地はどうだったのか。わたしは、東日本大震災の被災地を訪ね、3人の方に話を聞いてきました。街を再建したトップ、町を巻き込んで生業を復活させた商店街、あの日14歳だった少女は社会人になりふるさとで働いています。東北から石川へのメッセージです。
宮城県南三陸町 佐藤町長:
「とにかくお前たちが復興しろよというそういうことで俺たちが生き残ったんだから俺たちが頑張って行かなきゃいけないな」
宮城県北部に位置する海辺の小さなまち・南三陸町。人口は約1万2000人です。
Q 変わりましたか?風景)
佐藤町長:
「まったくもう、この辺はもう市街地だった。」
東日本大震災では、最大23メートルほどの津波を観測し死者は約600人。町の8割が津波に飲み込まれました。
佐藤町長の震災1週間後の会見:
「ご苦労様です。もう1週間たったのかなというのが率直な思いです。」
あの日、職員とともに役所の隣にあった防災対策庁舎に逃げましたが高さ12メートルの屋上を超える津波が襲来。佐藤町長は階段のフェンスに打ち付けられ奇跡的に津波に流されませんでした。
屋上で助かった10人職員など43人が死亡・行方不明に…
直後の佐藤町長:
「我々に託されたんだから残った職員が。力強く宣言しますよ南三陸町は復活する。」
佐藤町長:
「とにかく生き残った俺たちがこの町作んなきゃいけないという思いだけでしたよ。かといって自信あったかというと自信なんか全くないですよ。この町って本当に復興できんのっていうのが正直なところだけど首長ってそんな事いえねぇのよ。もう強がりをずっというしかない。」
「2度と津波で命を失わない町」を作るために下した決断は「高台移転」小さな町の財源規模を遥かに超える一大プロジェクトでした。国の支援額が決まるまで約2年。その間は本当に高台移転できるのか確信をもてずにいました。
佐藤町長:
「だんだん現実にぶちあたってくるわけよもうね1年2年たってからかな。」
どこまで登れば、頂上まで行けるのっていう思いがしてた。頂の見えない山に登るっていう、そのときね振り返って、ふっと下みたら、もう10年前ってすぐそこだったなって気する。震災から約10年かけて2020年高台移転は完了しました。
佐藤町長:
「我々もそうだったんだけどがんばれっていうつもりは全くないとにかく諦めちゃ前にすすまないよって。それはさっき言った一番最初に言った使命感ですよ。全国の皆さんのご支援のおかげで南三陸町もしっかり復興を果たすことができました。皆さんも間違いなく復興を果たすことができますので諦めずに頑張っていただきたいとおもいます。」
「お邪魔します。」
「たこはいっぱいとれるから名物なんだよね。」
「食べてみてね。」
「美味しい!」
「なんにも味つけしてないんだよ。塩だけでさ。」
宮城県南三陸町で鮮魚店を営む山内正文さん。
震災から50日後の山内さん:
「市を興してみんなで幸せになるそういう壮大な意味を込めてこの福興市という名前をつけました。」
生業の復活を目指し震災からわずか50日で「復興市」を始めボランティアの協力も得ながらお客さんの前に立ち続けました。
山内さん:
「だから商売なんてできないなっておもってたんだけど福興市をやってだんだん商売やってた感覚が戻ってくるんだよみんな早く自分の商売したいって気持ちになってきたからね。」
翌年にはそのつながりで仮設商店街を始めました。中には、呉服屋からお土産屋さんに業種を変えて再出発する人も…
山内さん:
「福興市やるとき今までやってきた商売を離れてもいいよって言ったのよ。儲かるかわかんない商売をとにかく福興市の中で一回やってみてって言ったのそこで何回かやることによって自信がついたらそれを本業としてやってもいいからってことで練習の場にしてもいいよってことを皆に口酸っぱく言ったの。」
商店街は観光名所となりいつしか海辺の小さな町には震災前の約1.4倍にあたる年間144万人の観光客が訪れるようになりました。
山内さん:
「商売をしていると地元のお客さんが来るでしょいろんなお話をすると元気をもらったりあげたりすることが出来たりするんだよねみんな不安なんだ結局これから生活をどうしていくかとかそういう不安な気持ちをいろんなお客さんと話すことによって持ち直すからそれが大事だったのかなという風に思うよ。」
山内さんメッセージ:
「商人が動けば絶対に元気なるといち早く復興ができるとそういう気持ちで頑張ってきていますのでみんなもよろしくお願いします。」
岩手県釜石市。
「もしとどまっていたら私たちも間違いなく飲み込まれていたと。ここで私自身も初めて津波をみました。まちがどんどんなくなっていくというか壊れていく光景があまりにも衝撃的すぎて理解が追いついていかなかったんですね文字通り頭が真っ白でした。」
震災伝承施設「いのちを繋ぐ未来館」。ここで語り部として働く川崎杏樹さんです。
川崎さん:
「当たり前じゃないんだなというのを考えて生活するようにもなった一般的な普通が全くなくなった。」
あの日、津波の被害を受けた小中学校。生徒600人は、一斉に高台へ逃げました。そのうちの一人が当時中学2年生だった川崎さんです。
川崎さん:
「同じようにみんな学校いる時に被災をして一生懸命高台に逃げてっていう共通体験じゃないですけどそういうのがあってみんなで頑張っていこうじゃないですけどしょうがないけど友達いるからいっかみたいな。けど高校入ったらやっぱり津波の被害受けていないエリアの人たちとか同じ市内でも、震災に対する感覚の違いといいますか、近くに家族亡くしている子がいる反面被災者って言葉ずるいよねみたいな話もあったりとか直接言われるわけではないんですけどそういうのも聞こえてきたりっていうのは。悪気があったわけじゃないんだけどそういう風にポロっと言っちゃうかもしれないなっていうふうにおもいました。色々言葉には気をつけよっていう風にその時は思いましたね。」
あの日から14年。14才だった川崎さんは28才になり中学校があった場所はラグビー場へと姿を変えました。
川崎さん:
「毎年3月11日にはサイレンが鳴ったりもするのでその時にみんなで黙とうしたりとかはあるので特別にふれないようにしているわけでもなく積極的に喋るわけでもなく、あの大きな災害ですらも日常にちょっとずつ溶け込んでいくというか
変わっていくというか当たり前になっていくその生活が当たり前になっていく日常になっていくっていうか特別自分の中で整理しようというか思い出してつらいなっていうのを意図的にというよりかはちょっとずつ私自身も変化していってる部分もあるんじゃないかなと思います。大変な生活に慣れろということではなくて少しずつ周りの環境もいい方向に必ず変化してきます。なので皆さんも無理に乗り越えようとはせずにその時1日1日を大切にすごしていただければと思います。」